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整骨院のハテナ???を説明します③

おはようございますわーい(嬉しい顔)
今朝の長崎は快晴です晴れ
さて、整骨院のハテナ???の説明をしだしたら、本当に長くなって
しまいました(>_<)。 さて、本日は・・・ 柔道整復師には、なぜ『柔道』がついているのでしょうかexclamation&question
です。
これって、多くの方が、疑問に思われているのでは(?_?)
職業を「柔道整復師です。」と言うと、
結構「柔道の先生か何かですか?」と返ってきます(*_*;
話は、かなり古くなりますが説明させていただきますひらめき
今から300年程昔、江戸時代(1700年代中頃~後半)に
柔道整復の原型は成立したようです。
長崎 『楊心流柔術』
大阪 『難波ほねつぎ』
江戸 『ほねつぎ名倉』
にてそれぞれ発達したようです。
今回は、なぜ『柔道』が名称につくのかなので、
この点を中心に説明させてもらいます。
柔道は明治時代に、講道館柔道の創始者、嘉納治五郎先生が起倒流、
天神真楊流を研究され『知育・徳育・体育』の教育のために創られました。
その元流の一つである『天神真楊流』は『楊心流』の系統で、楊心流では
相手を倒すための『殺法』と、痛めた人を治すための『活法』の両方を
修得するのが特徴です。その中の活法の一部に整骨法がありました。
現在の長崎市築町・・・・あせあせ(飛び散る汗)あせあせ(飛び散る汗)
えっ、築町って、『はしぐち整骨院』があるところでは・・exclamation&question
そうなんです、実は、築町の約半分は旧町名が本下町と言うのですが、
その本下町に、吉原元棟という元武士で、柔術の名手が江戸時代の
1700年代に住んでいたそうです。
8年前に、築町に来てから古典の研究をしていて知った事実で、
本当にびっくり(@_@;)でした。
吉原元棟は、修得した柔術を元に、整骨名人となったと伝えられています。
当時の医師で、大通詞であった吉雄耕牛に認められ吉雄流外科では、この
元棟の整骨法を教授していました。
お弟子さん数名が『正骨要訣』を著し、これは多くの吉雄流外科を学んだ
医師に伝わったとのことです。
また、お弟子さんの一人で、二宮彦可は『正骨範』という本を出版しています。
これって、かなり衝撃的なことで、当時医術は『秘伝』で、門人にしか伝えません
でしたが、公に出版することで、多くの方が恩恵を受けただろうと思います。
吉原元棟が何流の柔術家だったかは、明確にはされていませんが、
『正骨要訣』『正骨範』の整骨法などから考えると、
やはり『楊心流』系統であったと考えられます。
ここで、話を戻しますが、
楊心流柔術(整骨法の修得が特徴)
  ↓
天神真楊流柔術
  ↓
講道館柔道
という、柔術接骨、武医同術の流れとなりました。
昔から整骨・接骨・正骨・ほねつぎなどと呼ばれていました。
明治の医制改革にて、接骨業は一旦廃止になりましたが、
大正9年に『柔道整復』という名称で医療スタッフの一員に
加わった訳です。
この時の公認運動で活躍した多く方が、
天神真楊流柔術、講道館柔道をされていたので、
当初は『柔道接骨』で申請したのが
認められずに、結局は『柔道整復』でOKとなったそうです。
この時から、柔道整復という説明し辛い名称になりました(^_^;)
まあ、自然の流れかも知れませんが、武道をしていたらケガはつきものです。
当然、沢山、ケガを診ていく中で治し方も上手になりますよね?
それが『医療』に昇華して行き『柔道整復』になったという感じです。
昔から、柔道の師範は「ほねつぎ」さんも兼ねていました。
マンガの『YAWARA(ヤワラ)』のお祖父ちゃんも、
「ほねつぎ」の看板を上げて接骨院をされていましたよね。
まあ、マンガのようにイモリを煎じたりはしませんが・・・(>_<)。 そうそう、前述しましたように、現在では柔道整復は養成校でしか 修得できません。 柔道をしているから「ほねつぎ」できるのではなく、柔道整復を 学んだから「ほねつぎ」できるようになっています。 しかし、養成校のカリキュラムでは必ず柔道をするようになっており、 本当に日本の武道文化から発展した『医療』なんだなと思いますし、 日本独特の文化であるのを感じます。 最後に、西日本では整骨院、東日本では接骨院で看板を上げているのが 多いように思えますが、どちらも業務内容は同じです。 このあたりもまぎらわしいですねたらーっ(汗)
以上、長くなりましたが(^_^;)
少しはハテナ??が解明したでしょうか?

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